静かな夜だった。
風は無く波も穏やかで、水面に映る青白い月の円い輪郭が、規則正しく揺らいでいる。
つまらない夜。
水平線の彼方より押し寄せる波は、やがて聳(そび)え立つ岩壁に遮られ、反動で空中に散った飛沫を取り込んでは、また沖の方へ引いていく。
ゆっくりと、ゆっくりと。
繰り返し、繰り返し。
単調で、いつか止まってしまいそうなその旋律に、しかしFin.(終わり)は訪れない。
まるで、今のこの国みたい。
* * *
切り立った崖の上に、白亜の壮麗な城が築かれていた。
中央には天高く聳える尖塔が並び、左右には崖を利用した段状の城壁が、海上まで伸びている。
複雑なその造りは、羽を広げた白鳥を模しており、夜闇の中に朧(おぼろ)げに浮かび上がる姿は、高貴で幻想的な雰囲気を醸し出している。
――いっそのこと、止まってしまえばいい。
月明かりを浴び、妖しく輝く金の長い睫毛を軽く伏せ、尖塔の一つ――その中でも中心部の、他より太い作りのものと、最上階の渡り廊下で繋がっている塔――の上層部の窓から、海面を静かに見つめていた少女が、夕闇の中で一人ごちた。彼女の背後には、中央連塔に住まわう王族に相応しく、豪壮華麗な家具装飾が広がっている。しかし、その華やかな品々も、今や薄暗がりの中で、そこここに不気味な影を落としている。
少女は、海の見える窓辺に椅子を運び、塔の外面に取りつけられた窓ガラスと内壁との隔たりに片腕をついて、外を眺めながら思案するのが好きだった。取り分け、黄昏から日没後の海を見つめている事が多かった。そうすると心が落ち着き、思考が研ぎ澄まされる。いつも何をしているのかと尋ねた、一部の近しい者に、そう答えた事もある。
そろそろ、広間で催されている、迎賓会の迎えが来る頃合である。
今宵の会の主賓は、然程階級が高くはないが、社交界に精通していると言われている。
また、数日前から滞在している旅の楽団に、絶世の歌声を持つ歌手がいる。
彼女は心にその催しのビジョンを浮かべては、動かし、ひびを入れ、砕き、破片を繋ぎ合わせていた。彼らを取り込み、利用し、将来の後ろ盾と剣を作り上げるために。
コンコン。
控えめなノック音が、闇に響いて、すぐに消えた。
「誰です?」
音質は高いが、月光のように研ぎ澄まされた声が、ドアの外に向かって放たれた。
「……僕です、お姉さま。お父さまが、お客さまにご挨拶をするから、呼んで来なさいって――」
しばし躊躇うような間の後に、気の弱そうな高めの声が、少女にぎりぎり聞き取れるほどの音量で返ってきた。
「まぁ、クリス!」
少女は今までの冷徹な表情を一転させ、乱暴に窓を閉めると、膝を隠す丈のボリュームのあるドレスの裾を掴み、一直線にドアへ向かい、鍵を外した。
外に待っていたのは、声から容易に想像出来る、気の弱そうな、十を過ぎたくらいの少年であった。高価な絹の白い布を上に纏った、若葉色のローブをよく着こなしていることから、育ちの良さが感じられる。柔らかなブロンドの髪に、透き通ったサファイアブルーの瞳。微笑んでいれば絵に描いた天使のような美少年だが、あいにく金の長い睫毛は、力なく下を向いてしまっている。
少女は、他にお付きの者など誰もいないことを確認すると、声を荒げて言った。
「どうしてあなた一人をこんな所まで呼びにやらせるのです!? このようなこと、下働きの者の仕事です!」
少年は、少女の反応を予想していたらしく、おどおどと彼女を制した。
「ち、違います、お姉さま。僕が、僕が行きたいと申し出たのです」
「……誰にです?」
少年の言葉を聞いた少女は、すかさず問い返した。
「そ、それは……」
言いよどんでしまった少年を見て、少女は聖女のような面持ちで、愛おしそうに彼の頭を撫でた。第二王子の証の文様を刻んだ、小さな冠を外して。
「クリスは本当に優しい子。私たちを陥れようとしている人間を庇うなんて……。あの男に頼まれたのでしょう?」
「あ、そ、そんなことはありません、お姉さま! 僕は、ただ、お姉さまを……」
優しい愛撫に緊張した心を緩ませかけていた少年は、焦って少女を見上げたが、視線を交わした彼女の青い瞳には、鋭い光が宿っていた。少年ははっとして言葉を切った。
止まってしまえばいい。
もしも、今のままならば。
「……あまりお父様たちをお待たせしては、あなたの信用に傷がついてしまいますね」
少女は再び少年に微笑むと、優しくそう言い、頭に冠を乗せ、手を引いて螺旋状の階段へと歩み出した。少女を見つめる少年の表情は、暫く浮かぬものであったが、繋いだ手から感じる温かさのためか、次第に足取りを軽くしていった。
手を引く少女と、後ろを歩く少年の姿は、よく似ていた。音楽を愛し、信心深い所も、よく似ていた。少女は少年を心から愛し、少年は少女を慕っていた。強い自我と知術に優れた少女は、引っ込み思案の心優しい少年にとって、姉であり、母であり、絶対的な庇護者であった。
だけど、この取るに足りない雑音を止めることが出来たなら。
新しい楽譜を描くことが出来るのなら。
その楽譜にはあなたを乗せるの。
……あなたが新しい旋律(クニ)を奏でられるように。
少女は弟の視線に気がつくと、フフと笑顔を向け、「なぁに?」と問いかけた。今は亡き、ゴシックランド国王の寵姫であり、後に後妻となった、母カトリーヌとよく似た顔で。
――思い通りに奏でられないならば、
いっそのこと止まってしまえばいい。
少年は、姉の眼差しにはにかみながら、「いいえ、なんでもありません」と答えた。
少女は彼の微笑みを見るのが好きだった。この微笑みを見ることだけが幸せだった。この微笑みを守るためになら、他の全てを犠牲にしても良いとさえ思っていた。
もしも、止まらないのなら、
「……私が止めてしまえばいい」
突然の呟きに、隣で少年が小首を傾げたが、少女は無言で微笑んだまま、目的の広間へと急いだ。
静かな夜だった。
しかし、その時すでに国家の運命を変える謀策の旋律が流れ出していたことに気づく者はなかった。
――そう、全てはクリスのために。