目の前を突風のごとく過ぎていくセリカを見、騒ぎを聞きつけて裏庭へと向かっている兵士たちはどのように思っただろうか。
(まあ、そんなこと一目瞭然だけど……)
あたかも自分の持ち場に向かうかのように中庭を抜け、棟と離れの関係にあたる一般兵の宿舎を横目に侵入者が消えた方面へ飛んでいくセリカは、その場に居合わせた数人の兵士と、自室待機を命じられ窓から様子を伺っている少年兵たちに、驚愕と不安と一抹の興味を与えたに違いない。
必死にセリカを追いつつも、意外と心中に冷静な自分がいることに気づき苦笑するアベル。それでもセリカに向かって危険だと叫んでいるであろう周囲の声音がただの雑音にしか聞こえないあたり、やはり普段ほどの余裕を保てていないと見える。
決して少なくはない数の兵士がセリカをどうにか止めようととび出すが、結局うまくかわされてしまって、彼女の背を追うアベルと衝突しそうになること何度目か。
兵士の呼び声か、はたまた兵士そのものか、何によってか分からないが予告もなく立ち止まるセリカに、アベルは危うく激突するところだったが、日頃の好き好んでしたわけではない方の鍛錬の成果でもって、勢いを殺してそれを未然に防ぐことが出来た。
アベルは立ち止まった瞬間にやっと周囲にかなりの人だかりが出来ており、そうかと思うと数人の兵士が地面に倒れていたり、そのような者に肩を貸す者がいたりと、何やら不穏な光景が広がっていることに気がついた。
セリカの進行を妨害した主を彼女の目線の先に求めると、そこには、数人の兵に取り押さえられながらも必死の抵抗を試みている、侵入者の姿があった。
王女の特権でもって、人ごみをかき分けて侵入者に近づけば近づくほど、その声は高く、背は低い、少年のものだということが分かってきた。アベルとセリカは、人だかりの中心部近くまで押し入っていた。
「あ、あの黒いボロ布! 先ほど街中で見かけた怪しい奴です!」
「え! 帰りがけに話してくれたすぐに通路に消えちゃったってヒト!?」
「顔は分かりませんでしたが、このような怪しい格好の者が、そうそういるとは思えません! ……しかし、思ったより大分若い気がしますね」
二人は隣にいるにもかかわらず声を張り上げて会話をしなければならなかった。実質侵入した少年を捉えているのは二、三人であったが、周囲を取り囲む怒声やら元はヒソヒソ話であったものやらの喧騒は、もはや通常の音量など容易にかき消してしまう域に達していた。
「離せ!! 下ろせ、クソったれ!!」
とぎれとぎれに聞こえてくる少年の抗議の声。彼は力いっぱいに抵抗を試みているが、数人の大人、しかも毎日訓練を欠かすことのない騎士を相手に敵う術など持ち合わせているはずもない。
わめき続ける少年をセリカは腰をかがめ、アベルは背伸びをしてともに兵士の間から覗き見ると、黒というより暗い深緑の汚れた布を剥ぎ取られあらわになったその顔は、抵抗した際に兵によって受けた傷のせいで多少血が滲んでいるものの、声の主に相応しい十四、五歳のものであった。右手には窓ガラスを割り交渉の品を奪った時に使い、更にその後に逃亡を妨害する者にささやかながら必死の抵抗を試みるためにも用いたであろうブーメランがしっかりと握られていた。周囲に倒れていた兵士はそのためであろうが、両手を塞がれてしまっている今、もはやそれが役に立つこともないのだが。
「ふん、ドブねずみを捕まえたようだな。貴様らの腑抜けた警備には心底肝を冷やされたものぞ」
不意に辺りが水を打ったような静寂を包み込んだと思うと、兵たちの輪の一箇所が開かれ人垣がアルファベットのC型に広がり、その中心へと目を血走らせ広い額に青筋を浮かせたビクトールが早足で歩み寄り様にそう言い放った。
少年は一旦皆につられて沈黙したが、すぐにまた下ろせだの畜生だのと叫び始め、目前に迫る人物を認識すると驚きと怒りの混じった目を彼に向けた。
「て、テメー、あの時のっ!」
「ふん、貴様の様な虫けらなど一々覚えていられぬわ。そもそもここは貴様のような下賤な者が、立ち入ることすら許されぬ領域ということを承知してもらいたいものだ。……それにしても、よくもまあ、人様のものに手がつけられたものよ、この卑しい盗人め。さあ、盗んだ小箱を返してもらおうか!」
少年が声を更に荒げると、ビクトールは少年にまた一歩近づいて首元の布を無造作に掴みつつ、言葉に抑揚をつけて高慢に言い放った。
すると少年はビクトールの態度に逆上したのか、またも抑えられている手足を必死にばたつかせようともがきながら絶叫した。
「何が人様のものだ! これは父ちゃんが大事にしろよってオイラに託した形見のペンダントだ! それをいきなり大勢で押しかけてきて奪っていった、お前たちの方がよっぽど盗人じゃねーか!!」
「なんですって!?」とセリカが叫びかけたが、それよりも先にビクトールが大声を張り上げた。
「うるさい! これはワシが質屋に売られていたものを金を払って買い取ったのだ! これはワシのものだ! ええい、何が父親の形見だ! この首飾りの価値をそんなドブネズミの遺物と同視するでないぞ!!」
「なんだと!? 父ちゃんの形見をけなすな! くそっ、放しやがれこのでか物共めっ! ぜってー許せねー!!」
ビクトールと少年の言葉汚い言い争いが始まると、周囲を囲む兵士たちも口々に「そうだ、そうだ」、「この盗人小僧め!」などと罵声で場を沸かせた。
徐々に空洞部分の狭くなる人の輪の中心において、セリカとアベルは後ろからの圧力に必死で体勢を整えつつ、耳と目を凝らして争いの首謀者を見据えていた。
そして、興奮したギャラリーの中心部をもう少しよく見えないものか、と後方で企んでいた数人が、ふとした瞬間に引き起こした転倒とそれに続く変則的なドミノ倒しによって、侵入者を押さえつける兵士にもたれかかったセリカと、彼女の背を庇うように密接したアベルは、ビクトールの口からとても興味深い単語を耳にした。
「――これは、貴様の父親風情の形見で収まるものではない! これは、神の遺産であるぞ!」
* * *
ビクトールは取り返した小箱を大切そうに抱えて、客人を待たせる謁見の間へと速(すみ)やかに戻っていった。
アベルたちは、その後交渉が無事に終わったことを再び訪れたイゾルテの部屋で知った。騒ぎに乗じ謁見の間の見張りと扮して話の内容を拝聴してきたイワンが、情報の提供元である。
少年はというと、ビクトールが“あの”単語を言った直後に、破れかけていたボロ布からのぞく腰に紐で固定されていた小箱を奪い返し、「どうせ死刑だ、適当に牢にでも放り込んでおけ!」と言い残して去ってしまったので、今は地下牢に閉じ込められているようだ。
少年の、父親の形見をビクトールに奪われたという言葉にも引っかかりを感じたが、今はビクトールの悪事や少年の生い立ちよりも、突如発せられた日常では耳慣れない単語への好奇の心が優先した。
しかしアベルもセリカも、ビクトールが神の遺産という言葉を口にしたことを、打ち合わせたわけでもないがイゾルテとイワンには言わなかった。
それは、その二人を信用していないから、という訳ではない。
『神の創造(つくり)し七つの秘宝と 奇跡の扉を開く鍵を手する者 白と黒の巫女に導かれ 汝が願いを叶えることとなろう』
“神の遺産”、もしくは“神の秘宝”と呼ばれるものについてのこの伝承は、この世界を創造したとされるレジェンディール神を崇める世界的宗教、レジェン教の総本山であるソロモン神聖王国の聖書の一記述に由来するものだ。
そしてこの伝説は、この世に生を受けた人間なら一度は耳にしたことのある位有名なものである。
けれども、これはあくまで御伽噺として子どもに伝え聞かせているものであって、本気で秘宝の存在を信じる者は一部の裕福な者や権力者、それに冒険者くらいのものである。そのような者は、変わり者や夢追い人、はたまた税金の無駄使い、時代によっては争いの元凶とさえされたほどだ。
アベルたちはイゾルテとイワンに「神の遺産とは何か」と尋ねてみたが、「懐かしいですね。そんな夢物語をなぜ突然?」と聞き返されてしまったために、それ以上尋ねることをしなかったという訳である。勿論、一般人からそのような答えが返ってくることなど十分予想の域であった。
四人は先ほどの出来事と取り留めのないことについて、騒ぎの間侍女頭に呼ばれていたイゾルテ付きの侍女に入れてもらった、薫り高い紅茶とクッキーを囲んで話し合ったが、窓の外を見たアベルが大分日の落ちていることで時間の経過に気づき、セリカとともに部屋に突然押し入ったことへのお詫びと感謝の意を示してから、イゾルテの部屋を後にした。